旋盤自作のための旋盤の歴史(History of Lathe, for DIY)

 

 

はじめに

 未だ空想止まりだが、古い時代の廃れた技術いわゆるローテクノロジーが現代のDIYに資するのではないかと思っている。ものづくりをする時、目的を達成するために利用できる技術はいくつかあるはずだ。皆さんはそれらをネットやら何やらで先例を探し出し、参考にして自分のものづくりに役立てているはずだ。それと同じように、歴史に埋もれた昔のアイデアから何かを得ることができるかもしれない、そのような期待をしている。

 ちなみに、「アイデアの源を過去に求めただげであって、正確な歴史観を獲得し妥当性のある解釈をするためではない」ことに留意してほしい。

 

 

旋盤の歴史

手引ろくろ

 紀元前300年の古代エジプトの壁画に、手引ろくろが描かれている。これを使うには2人必要で、一人がロープでワークを回し、もう一人が刃物でワークを削る。ワークを回す人がロープの両端を片手ずつ持ち、ロープを片方ずつ交互に引くことでワークが順回転・逆回転を繰り返す。ワークを削る人は、ワークが順回転するのに合わせてワークに手工具を押し当てて削る。

古代エジプトの手引ろくろ

 

 

弓旋盤 Bow lathe

 古代エジプト?のような時代に、このような弓旋盤も使われていたらしい。この旋盤は手引ろくろとは異なり、一人でも操作できる。弓の弦をワークに巻きつけ、弓を前後に動かすことでワークが順回転・逆回転を繰り返す。ワークを削る刃物は、まだ手工具だと思われる。手で弓を引くため刃物を片手で使わざるを得ず、操作は異様に難しいのではないかと思う。

古代エジプト?にあったかもしれない弓旋盤

 

 

棒旋盤 Pole lathe

 手引ろくろからしばらくたって、足を動力とする棒旋盤が発明された。少なくとも13世紀に、棒旋盤の最も?古い記録としてシャルトル大聖堂のステンドグラスに残っている。手引ろくろや弓旋盤と比べると、この棒旋盤は少しばかり大きくなった。足元から天井まで部品があるからだ。足元の踏み板から天井のたわむ棒までロープが伸び、ロープの中ごろでワークに巻きつけられている。踏み板を踏むとロープに引かれてワークが回り、踏み込みをやめると棒の弾力に引かれてワークと踏み板が元の位置に戻る。これを繰り返すことでワークが順回転・逆回転を繰り返し、丸く削り出すことができる。棒旋盤を足で動かすことによって、ワークを削る刃物を両手で扱えるようになった。だから、弓旋盤と比べても、一人で加工しつつも操作性はかなり改善されているように思える。

棒旋盤

 

 当時の西洋の職業を紹介した本で棒旋盤を使った旋盤工?が散見される。1694年にオランダのヤン・ライケンによって出版された「人間の職業」に、下図の旋盤職人が載っている。江戸時代の蘭学者はこの本をご存知だったようで、司馬江漢はこの本の別の版画(旋盤ではなく籠作りの版画)にとても良く似た絵を描いたらしい。蘭学を通じて日本の旋盤に影響があったのか無かったのか、明治維新後のリープフロッグ現象で一足飛びに旋盤が変化したのか気になりますね。

 

 棒旋盤の動力でいくつか派生があったらしい。ワークを巻き戻す弾力の元となる棒の代わりに弓を使ったもの、弓だけではなく弓の弦の捻りも弾力として活用したもの、棒を上方に配置するのではなく機械の下部に設置して棒と踏み板をBeam(梁・てこ)を介してつないだものなど。

 

 

レオナルドの旋盤

 15世紀後期に活躍したレオナルド・ダ・ヴィンチの手稿には、より改良された旋盤が描かれている。描かれた旋盤の改良点は主に2つある。1つめは、クランクで断続的な足踏みを連続した回転運動に変え、ワークが一方向に回転し続けることで絶え間なく切削できるようになったこと。2つめは、断続的な足踏みや切削を受けても回転が止まらないようにフライホイールが取り付けられたこと。特に2つめのフライホイールは、主軸が一方向への回転運動を続けるからこそ効果的になった工夫だ。

レオナルドの旋盤

 

旋盤の転機

 1800年頃、ヘンリー・モーズリーは現代の旋盤に直結する旋盤を作り出した。切削工具を機械化する刃物台やそれを機械的に操作する送り台、主軸と切削工具の運動を同期させ、歯車を変えることで任意のピッチのネジを作れるネジ切りが組み込まれている。これらの仕組みはモーズリー以前に発明され既に使われていたが、汎用旋盤としてこれらを結集させた点でモーズリーが有名である。だから、ヘンリー・モーズリーは工作機械の開発者の先駆けであり、科学的成果や想像を実現させる手段をもたらした偉大な人物の一人だ。ちなみに、蒸気機関を改良したかのジェームズ・ワットも、簡便ながらもこれと似た旋盤を所有していた。

ヘンリー・モーズリーの旋盤

 

 

日本

 大して調べていないので選択バイアスかもしれないが、アジア圏と西欧圏の古い旋盤(手引ろくろや棒旋盤)に違いがあるように思える。西洋ではワークにロープを巻きつけているが、日本ではワークを取り付ける主軸にロープを巻きつけているように思える。西欧では棒旋盤が使い続けられたのに対し、アジアでは手引ろくろやその派生型が使い続けられた。アジアでの手引ろくろの派生型とは、右図のように主軸に巻きつけられたロープの両端を、足と踏み板で交互に引っ張る形式である。また、西洋では回転体の側面を加工する外周加工が多く、江戸時代とかの日本ではワークを片持ち支持した端面加工が多い気がする。

 

 日本機械学会が認定している機械遺産に、伊藤嘉平治が明治初期に作った足踏み旋盤がある。彼が作った旋盤は左図で、土台の木を除き金属で作られている。旋盤の実物が明治村に、その複製が東京工業大学に展示されている。ちなみに、この時代の旋盤はオランダ語のdraaibankに由来する「ダライ盤」と呼ばれていた。江戸時代にもてはやされた蘭学の残り香を感じるエピソードだ。

 島津製作所 創業記念資料館に、右図のような旋盤が展示されている。京都の舎密局に勤めていたゴッドフリード・ワグネルが、1875年のウィーン万国博覧会から日本に持ち帰ったものだ。ワグネルが京都を去るさい、理化学機器の修理で交流のあった島津源蔵にこの旋盤を譲ったらしい。1875年当時、全金属製の旋盤が作られるようになってからもう半世紀以上経っているため、ワグネルから譲り受けた旋盤は最新鋭でも何でもない。例えば、この旋盤は木を基本的なフレームとし、ベッドの上部や軸受や軸のように激しく擦れ合ったり動いたりする部分が僅かながら金属でてきている。例え当時の最先端ではなくとも、当時の後進国である日本の民間企業にとっての価値はどれほどだっただろうか?ちなみに、その複製が東京工業大学に展示されている。

 

 

仕組み

 「ローテクノロジーDIYに応用する」なんて大言壮語を吐いたのだから、昔の旋盤の構造について雑にまとめようと思う。時代を遡るほど機能が少なくて構造が単純になっているように思える。だから、各々の技術レベルに応じ、参考にする時代を選べば何か良い知見を得られるかもしれない。また、時代を遡るほど旋盤を作るのに必要な社会資源も単純になっていく気がしている。例えば、近年の機械は工作機械を前提とした構造になっているが、古い機械だと手工具と多大な忍耐で製作可能(工作機械が殆ど無い時代でも機械を作っていたのだから)な構造もあるように思える。

 

主軸

 太古の軸受は、先の尖った錐体(Cone)を凹みで受けるピボット軸受である。古い旋盤にはこのピボット軸受が使われており、2つのピボットでワークを挟むことで、2つのピボットを結ぶ直線を中心とした回転運動に制限できる。この保持方法は、古代から近代の棒旋盤まで長い間使われ続けたようだ。

 

 18世紀中ごろ、旋盤の軸受として下図が描かれた。右側の軸受は、方形のU字に二つ割りの滑り軸受をはめ込む構造になっている。その滑り軸受は軸より軟らかい真鍮でできている。軸受が摺り減ると配置を変えたり軸受そのものを交換できたようだ。この時代の主軸は、スラスト方向の力を主にワークから離れた軸受(この図で言えば、左側の軸受)で受けていた。この図では左側がピボット軸受だが、主軸を支える2つの軸受が両方とも二つ割りのすべり軸受になることもある。残念ながら、二つ割り滑り軸受の孔をどうやって作り出したのか全くわからなかった。

 

 19世紀中ごろ、I.Babbittがバビットメタルという軸受合金を発明した。このバビットメタルには、鉄の熱処理に喧嘩を売りそうな面白い軸受の作り方がある。それは、軸を中子として、滑り軸受を取り付けたいフレームと軸の間に溶かしたバビットメタルを流し込む方法だ。軸を中子にして鋳造するため、工作機械や職人技が無くともバビットメタルに丸い穴を作り出すことができる。鋳造のためにフレームや軸に熱が伝わり、熱変形や熱処理がオシャカになってしまうため、あまり良くなかったらしい。

 

 時計旋盤や古い卓上旋盤、古い木工旋盤には摩耗によるガタツキを抑える工夫うが施されていた。それは、すべり軸受をテーパー状にしてネジではめ合いを調節できるようにしたことだ。下の左図は、ヘンリー・モーズリー及びその後しばらく使われ続けた小型旋盤の軸受だ。下の右図は、現代の時計旋盤にも使われているらしい軸受の構造だ。時計旋盤のフレームにテーパー状の穴が開けられており、テーパーの外形をしたブッシュをそれに押し込んで内径を縮め、主軸とのはめ合いを調節するらしい。

 

 

ベッド

 中世から近世までの棒旋盤や他の機械の記録をいくつか漁っていみると、ベッドの中心線に沿って長孔が開いているベッドが散見される。古い棒旋盤の多くは、木で作られたこの形のベッドだったのではないかと思う。1480年のMittelalterliche Hausbuchにはネジ切り機械が描かれており、少なくともこのネジ切り機械には長孔を持ったベッドあるようだ。長孔を作るために2本の角棒を隙間をあけて並べたり太い角材に手工具で長孔をあけたり、いくつか方法があると思う。だが、昔の資料から詳細な機械の構造を推し量ることは困難だったので、長孔の詳細な構造を区別しないでおく。ベッドに長孔があることで、主軸台や芯押し台や刃物台を移動させ、ネジやクサビといった締結部品で任意の位置に固定できる。そのため、ワークの全長や加工位置に応じて芯押し台や刃物台を動かして、任意の形状を作りやすくなっている。

 

 1800年頃、ヘンリー・モーズリーは三角形の棒材をベッドとした全金属製の旋盤を制作した。この旋盤は、「交わる2つの平面を持つ」ベッドが真直度の基準となっている。モーズリーが作った旋盤の真直度は、正確な平面を持った定盤に基づいているらしい。そして彼の定盤はコンパウンドとキサゲを使った三面すり合わせという技法で作られ、これまでの旋盤より一層「真っ直ぐ」であることに気が払われたのかもしれない。※(ヘンリー・モーズリーが定盤を使ったかどうかについての情報が錯綜していて、情報の真偽は不明です)※。モーズリーは三角棒1本だけのベッドに限らず、2本のベッドの旋盤も複数作ったようだ。ちなみに、測量機器メーカーであるジェシー・ラムスデンがモーズリーより前に三角棒のベッドを使っていたので、モーズリーが始めてではない。

 

 モーズリーが旋盤を作る前や作って間もない時代、大きくて太い石材や木材の上に弱々しい鉄の棒を載せる構造のベッドも作られていた。それは、鉄以外の素材で力を受けて構造を支え、刃物台や主軸台を載せる表面だけに鉄を使っていたようだ。


 モーズリーが近代的な汎用旋盤を作り出してからしばらく経った頃、前後の2本の角棒を繋いだようなベッドが登場した。。手前と奥2本の滑り面を1つの鋳物に作り出したベッドだ。モーズリー自身も一体化したベッドを作成している。その後、ベッドの断面が工夫され、多くの種類のベッドの形が考え出された。2つの山を持つベッド、山と平らな面を持つベッド、上面が真っ平らでアリミゾのような英型のベッド、複数の山を持つ米型のベッド、英型と米型の折衷案としてのナローガイド型のベッドなど。

 

 ワークを回転させて切削するため、旋盤は回転体を削り出すのが得意だ。回転体には銃砲のような細長い棒状・機関車の車輪のような円板など様々な形があり、ワーク形状の合わせて正面旋盤といった特殊な旋盤が必要だ。一般的な汎用旋盤は振り(ベッドに接触しないワークの最大直径)が大きく無く、径の大きい円板を切削することができない。どうやら、径の大きい円板を加工できるようにした旋盤が考え出されていたらしい。

 まず、主軸近くのベッドを凹ませた、柄杓の形をしたベッドだ。ベッドにあるこの凹みを「切り落とし」と呼ぶ。切り落としで径の大きいワークを振り回す事ができ、1つの旋盤で加工可能なワークの種類を増やすことができる。ちなみに、日本機械学会が定める機械遺産に認定された、最も?古い国産旋盤である池貝工場製第1号旋盤もこの切り落としを持っている。

 主軸台と心押台の間にワークを設置するが一般的だ。だが、心押台とは反対の主軸に(下図の左端に)、つまり旋盤の外側にワークを取り付ける旋盤もあったらしい。外側までベッドが伸びていないため、径の大きなワークも加工できたはずだ。

 

刃物台

 現代では、でっかいノミに似た手工具を使うのは木工旋盤ぐらいだと思う。そして、送り台に固定したバイトで金属を削るのが普通だ。だが、19世紀以前は、金属でさえも手工具で切削していたようだ。金属を切削するための手工具はL字に曲がった形をしており、上が平たくなっている刃物台に工具の角を載せ、てこの原理で金属の大きな切削力を受けるようになっている。L字の手工具を使った金属の切削法は、少なくとも1701年のシャルル・プルュミエの「旋盤の技法」に載っている。

 

 手工具に生じる切削力に耐え刃先のブレを抑えるために、手工具を支える刃物台が必要だ。まず、古代エジプトの旋盤のように、旋盤の端から端まで伸びた棒状の刃物台もあったらしい。全長のどこでも刃物を置けるから、一見便利そうに思える。現代で見かけないのには何か理由が有るのだろうか?次に、現段の木工旋盤のような刃物台だ。ベッド上を自由に位置と向きを調節できる。

 

 ヘンリー・モーズリーは、刃物を機械的に支えて制御する刃物送り台を作った。Blenderモーズリーの旋盤をモデリングしたので、刃物送り台をご覧いただきたい。

 蒸気ハンマーを発明したジェームス・ナスミスが、19世紀中ごろに下図を描いた。当時の手工具と刃物送り台それぞれの作業の様子を並べて描いた、新旧の技術の違いをよく表した絵だ。両足を踏ん張って両手で手工具を操っている人に比べ、片手をポケットに突っ込んで棒立ちでハンドルを操作している、両者の違いを活写しているように思える。

 

 刃物送り台にはアリ溝の直線案内が使われている。現代のアリ溝の作り方はアリ溝カッターでブロックから削り出してしまうのが普通だと思う。だが、複数の部品を一つ一つ手仕上げで加工し、それらを下図のように組み合わせてアリ溝を作っていたこともあるようだ。機械加工や手仕上げのように、加工方法の違いによって設計が変化しているように感じる。

 19世紀には、このような自動送り装置も考え出されていたらしい。

 

動力

 ワークと工具の間に切削力と相対運動が生じるのだから、旋盤を動かし続けるためには何かしらの動力が必要だ。古くは、手引ろくろの人の手や棒旋盤の人の足が動力となり、その動力を拙い機構によって順回転と逆回転を繰り返す断続的な回転に変換した。早く回転させることができなかっただろうし、断続的に逆回転したときに切削できなかっただろうから、手引ろくろや棒旋盤によるタイパは低かったと思う。その断続的な回転に比べ、連続回転によってタイパは相当改善されたのではなかろうか。

 

 足踏み旋盤の動力部には、足踏みの往復運動を回転運動に変える仕組みが必要だ。そのための仕組みとしてクランクという仕組みが有名だが、それ以外も方法があったらしい。それは、Eccentric(偏心プーリー)とベルトを使う方法だ。クランクの代わりに偏心プーリーを取り付け、踏み板にはプーリーがはめ込み、偏心プーリーと踏み板のプーリーの間にベルトがかかっている。ベルトとプーリーを介して繋がっているため摩擦が抑えられているが、ベルトが伸びやすくて操作感に影響があるらしい。20世紀初頭の木工機械のカタログをいくつか見たところ、普通のクランクと比べ、偏心プーリーを使った機械が少なかった。この機構はさほど採用されていなかったように思える。

 

 ワークの材質や外径によって、切削力から生じる抵抗トルクは大きく異なる。金属のように硬くて外形が太ければ大きなトルクが必要で、木材のようにやわらかくて細ければ小さなトルクで十分だ。ワークを削るのに必要なトルクに調節し、余剰のエネルギーで増速させて作業スピードを向上させるために段車が使われた。段車とは外形が異なるプーリーを階段状に一体化したもので、任意の経のプーリーにベルトを架け替えて使う。

 

 18世紀中ごろに出版された百科事典「百科全書」には、手回しの大きな車輪を動力源とする旋盤が載っている。この百科全書には他にも、同様の大きな車輪や水車を使った回転砥石、水車動力の鍛造大型ハンマーが描かれている。それらのように、動力を分離し外部化し、作業者を分業し各々専念させるような、効率化を求める工業化の片鱗なのかもしれない。

 

 電気モーターが個々の機械に取り付けられる前、蒸気機関や水車の動力をラインシャフトとベルトで機械に分配していた。プーリーの間を平ベルトで繋ぐのが最も普及したようだ。その平ベルトを巻きつけるプーリーは面白い形状をしている。ベルトがプーリーから外れないようにプーリーの溝にベルトを添わせるのではなく、真ん中が膨らんだ和太鼓のような形をしている。ベルトが外れやすくなるように思えるが、逆に外れにくくなるらしい。

 

おわりに

 時代を遡ると、現代的感覚で言えば「拙い機械」でものづくりをしていたことに驚かされる。現代にはそれらより優れた点の多い市販品が溢れているが、チョット使ってみたかった・興味があっただけで数十万円もする市販品を購入するのは酷なことだ。だから、過去の設計を参考にして拙い機械を自作してみるのも悪くないのではと思える。旋盤の歴史の一端を知ることで現代の先入観を脱却し、制作意欲と想像力の足しになったら嬉しい。

 ちなみに、私はワナビーを脱却できていなくて落ち込んでいます。